2013年3月17日日曜日

泉谷閑示「反教育論 猿の思考から超猿の思考へ」

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2012年1月7日土曜日

小倉美惠子「オオカミの護符」

 小倉美惠子「オオカミの護符」新潮社、2011
川崎市宮前区土橋で見つけた一枚の護符。「オイヌさま」の絵柄が描かれているその護符には、関東の様々な土地で人々の間で息づいていた暮らし、信仰、文化の古層が隠されていた。古層といってもほんの数十年前には当たり前のように存在し、現在もかすかに痕跡をとどめている。しかし、いずれ消え去っていく可能性が高い。筆者はその古層の今を丁寧に追い、解きほぐして行く。百姓の知恵、オオカミ信仰、山岳信仰、今となってはその存在すら一般に知られることの少ない、こうした豊穣な世界観がかつて、今や都市化が進んでしまった東京や神奈川にも確かに存在していたことを明らかにしてくれる。年末に丸善日本橋店で見つけてページを開くや一気に読んでしまった。おすすめ。



2011年12月22日木曜日

その妹 @シアタートラム


 三軒茶屋のシアタートラムで武者小路実篤の戯曲「その妹」を観る。キャストは市川亀治郎、蒼井優、秋山菜津子、段田安則他。一見救いのない物語だが、出演陣の素晴らしい演技が故か、特に後半は引き込まれ、結構重層的な物語ではないかなどと空想を巡らす。

 これは単なる身売り話、盲いた兄を助けるための自己犠牲の物語ではない。そのように見てしまうとかなり平板な物語であり、退屈きわまりない。勿論それでも、俳優陣の演技を十二分に楽しむことは可能だ。

 もしかしたらこの物語は、妹の復讐譚ではないのか。妹のことを大切に思う、助けたい、幸せを願う、などと言いつつ、決定的に自分のことしか考えられず、夢想に遊び、生きるための力を得ようとしない二人の男。男の、のたうちまわる苦しみすら皮相的だ。二人の男を生かすために、妹自ら不幸せな境遇に陥ることで、二人の男に無力故の絶望を思い知らせる。然し、妹には一種の勝算があるに違いない。堕ちた先においても彼女は自分の生を見事に生き抜くに違いない。強き妻となり、母となり、一家の中心に収まるであろう。その程度のことをやり遂げるくらいに、これまでも十分地獄は見ている。其して絶望した二人の男は、そこから立ち上がることによって初めて生きる力を得ることができる、初めて文学で生きる力を、覚悟を得る。妹は自分が二人の男から離れ堕ちることでしか、二人の男が生きる力を持つことができないことを知っている。 自分一人も幸せにできない男に痛烈な一撃を喰らわせ、そして、そのことによって生きる力を与える。復讐と自己犠牲と憐憫、愛欲、愛憎の重層性、それでいて全編を覆う登場人物全員の生きることに対する厳しさの欠如。

 実篤はこの戯曲の中で、勃興しつつある資本主義と結果もたらされる拝金主義が如き風潮に、か細い抗議を試みている。その抗議の弱さ、自らの甘さに実篤は自覚的であったと思う。今の世も本来より良く生きるための手段でしか過ぎない筈の経済(を支える制度と仕事)といったものが、生きる目的と化し、夢想すら許されず、選択的な貧しさを選べない世の中になってはいないか。 極端に言えば、生きることそのものを楽しむことを諦めるか、強いられる貧しさに喘ぎ苦しむか、そんな二者択一の世の中に生きる閉塞感と向かい合っている。

 しばし夢想に耽ったが、これだけの思考を誘うのだから、それもまた素晴らしい演劇であったことの証であろう。

 蒼井優、大河ドラマ龍馬伝で、抑制のきいた透明感のある表情と激しさを併せ持つ上手い女優さんだなと思ったが、今回も微笑が凄味のある演技だったと思う。

2011年4月5日火曜日

櫻の木の上 櫻の木の下

 
少し前の金曜日、「櫻の木の上 櫻の木の下」という演劇を観にいった
校長先生を演じた役者さんの演技に深い感銘を受ける
戦争を語り継ぐもの、奇妙な対照?
同じ女学校という舞台で演じられる二つの時代
余りに卑小に映る現代の生
現代を生きることの苦悩
生存の危険や死にまつわる悲喜劇を語るのは易しい
現代の苦悩はもっと微妙で、淡く、微小なずれだ
だからといって現代が空虚なんてことはいえない
多くのものが詰め込まれ彼の時代に比べ却って密度は上がっているのではないか

大震災の報道が連日テレビで流れる
余りに直截な生と死にまつわる悲劇と、むきだしの悲しさと善に感情のセンサーが入力過多で破壊寸前だ
かつても、大きな苦しさと悲しさが満ちていた
今、それを語るのは単なるノスタルジーなのか
今を生きる悩みは卑小かもしれないが、よりリアルだ
生の感触を湛えている
それは押し倒した胸の感触、怒ったり叫んだり嘆いたり空を見上げたりする空気の振動
中原校長は若い教師たちに櫻の木の下に埋まっていたものを語ることはなかった

これは劇評ではない
何日もたって演技の生々しさ、明確な輪郭が失われたときに語り得る劇の影から漂う思考の澱のようなものだ
 

2010年12月11日土曜日

摂州合邦辻@日生劇場

 
日生劇場へ摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)と達陀(だったん)を観に行った。
菊之助の玉手御前は素晴らしかった。物狂い振りとラストシーンの静謐さのコントラストが見事。菊五郎も流石の安定感。文楽も観てみたいが、当面は歌舞伎に集中か。1月の海老蔵公演を予約していたのだがキャンセルになってしまった。代替公演もなかなか豪華なので(玉三郎!)どうしようか考え中。
 
 

2010年10月16日土曜日

連獅子はロックンロールだ!

 
今日は新橋演舞場へ歌舞伎を観に行った。
昼の部
「頼朝の死」
「連獅子」
「加賀鳶」本郷木戸前揃いより赤門捕物まで

2階の正面1列目というとても良い席だった。
連獅子を初めて生で観たが、今回は坂東三津五郎、巳之助の親子獅子、その迫力に圧倒された。有名な「毛振り」もさることながら、三味線のソロには身震いがした。直感的に「ああ、これは江戸時代のロックンロールなんだ!」と一人合点。と思ったら「連獅子」は明治5年初演、明治34年に現在の振り付け・構成になったらしい。。。歌舞伎=江戸時代の連想は短絡的だった。

「加賀鳶」も市川團十郎の道玄、どこか愛嬌のある悪党振りは大変楽しめたし、片岡仁左衛門の松蔵もとっても粋だった。

11時開演、15時半までという長丁場(歌舞伎では普通)だが全く飽きることなく楽しめた。
既に11月の顔見せ大歌舞伎もチケットは購入済み。来月が楽しみだ。
 
 

2010年8月18日水曜日

パスカル・キニャール「アマリアの別荘」


 

最近の酷暑が生をやけにリアルに浮き立たせる。ほとばしる体液、汗の匂い、荒い息づかい、虚ろな眼、不機嫌な口元、人間が生き物であることを否応なく突きつける。

生の醜さ。女性の露になった肩や脚でさえ吐き気を催させる。真夏の暑さが普段は人間を包んでいるベールを溶かしてしまうのだ。そうして僕は電車の中を吐き気と闘いながら目的地へ向かう。何とも空虚な目的地へ。

然し、暑い。

パスカル・キニャール 高橋 啓 訳「アマリアの別荘」青土社 2010
小説を読んでいて久しぶりにその世界に引き込まれた。
音楽について、一人の女性の人生について、彼女を取り巻く世界と人間の交錯そして崩壊。確かな物語の筋を拒否しているように見え、とても脆い薄いガラスの地盤の上を走るような物語。いつ崩れ落ちるのかビクビクしながら読み続けるが、彼女自信は壊れることなく、周りの世界が崩れていく。でも、取り巻く世界の崩壊は彼女自身の崩壊と同義ではないのか?彼女にとっては同義ではないらしい。彼女は余りに強く、そして脆い。

彼女は走り続ける。周囲の男は余りに弱い。走り続ける女と走り続ける男は決して交わらない。

愛の手応えのなさ。男と女の繋ぎ止めるものの弱さ。男の弱さ故なのか、女の酷薄さのためなのか。愛する者は例外なく失われる、色褪せていく。それを空しいと言っては生きることが虚ろと言うのに等しい。それは正しいが声高に叫ぶことでは決してない秘かな密やかな真実のささやき、耳を澄まさなければ聴こえない流水の音。