
ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」を青山南氏の新訳で読んだ。
数年前、文庫で出ている「路上」を読んだことがあった。その時の自分はどういう時期にあったのだったろうか。疾走感は感じたが、その時の自分にとって最も無縁なもの、遠いものと感じて、「ビート・ジェネレーションの代表作をようやく読んだ」という満足感以外に心には残らなかったように思う。
「路上」を読むには年を取り過ぎていたのだろうか、などと浅薄な評価を下していたかもしれない。
確かにそこには今の自分とは対極にある物語が描かれている。
でも今回は、読みながら様々なことを感じ、考え、思いを巡らした。
「魂について率直に語り合うべきだ、人生は神聖で、一瞬一瞬、貴重なのだから。デンヴァー&リオグランデ鉄道の蒸気機関車がしゅっしゅっと吠えながら山々のほうへ向かっていくのが聞こえた。ぼくはぼくの星をずっと先まで追っていきたい。」
「ぼくは好きなことが多すぎて、いろんなことをごちゃごちゃにしたまま、流れ星から流れ星へと走り回ったあげく落っこちるというのだ。でも、いまは夜だ、夜とはそういうものではないのか。」
物語のほとんどが乱痴気騒ぎと無節操で愚かな旅だ。
でも誰もが若いときにこんな旅を経験しているのだ。空間を移動する旅のスタイルではない、無目的さに苛まれた精神の放浪を。行く先の見えない、いや、行く先を決めつけてしまっているからこそ悲しいその場限りの馬鹿騒ぎを。
アレン・ギンズバーグの「吠える」を初めて読んだときの衝撃を忘れない。中学生のときだったろうか。
"僕は見た 狂気によって破壊された僕の世代の最良の精神たちを 飢え 苛ら立ち 裸で 夜明けの黒人街を腹立たしい一服の薬を求めて のろのろと歩いてゆくのを
夜の機械の 星々のダイナモとの 古代からの神聖な関係を憧れてしきりに求めている天使の頭をしたヒップスターたち
ある者らは 金もなく ぼろぼろのシャツを着て うつろな眼でタバコをふかし 寝もせずに 湯も出ないアパートの超自然的な暗闇で 都会の上を漂いジャズを瞑想していた
ある者らは 高架鉄道の下で 神に捧げる脳みそを暴いた そして 貧民アパートの屋根の上でよろめいているモハメッド的な天使たちが照らし出されるのを見た
ある者らは・・・" (諏訪優 訳)
初めて詩の力、言葉の力を思い知った体験だったかもしれない。
何故、ビートに惹かれたのか。
おそらくは自分に最も欠けていたものがそこにはあったのだろう。愚かな魂の放浪は一緒だったが。優等生の道を誇らしげに歩いていたが、確かなものなど何もなく、自分自身以外のものに権威の源を求める浅薄なプライドで覆われていた。
大学のときに、とても惹かれた友人がいた。
奴は帽子をかぶり、いつも人混みの中で歌を歌っていた。
私はといえば、帽子は全く似合わず、酔わなければ人混みでは歌えなかった。
奴は奴自身以外になろうとはしなかった。
私は薄っぺらな常識や倫理を奴に説こうとして全く相手にされなかった。そう、彼はヒップだった。
私は愛されない不機嫌な子供だった。
通勤電車 いろいろな顔、身体、匂い、ぶつかり合う身体と想念、不機嫌だったり、無表情だったり、笑みを浮かべていたり、怒っていたり、良い顔など滅多にいない。
誰もが海や山へ向かう長距離列車や車に乗り込んで遠くへ行きたがっている。自分を縛りつけているもろもろのものから解き放たれたがっている。自分を縛りつけているのは自分以外の何かではなく、自分自身に他ならないと薄々気がついているというのに。
旅に出よう。
それは無責任になることと同義ではない。
むしろ自分の人生を自分で責任を取って進んでいくための大切な行動だ、ビジョンだ。
あまりに心がごてごてと飾り立てられてしまって、本当の核を見失っている。何故、自分で身動きができないように心と身体を踏み固めてしまっているのか。
車に飛び乗ってメキシコへ行けばよい。
自分自身以外何も身につけられない荒野へ。
皆が生きることをシンプルに楽しんだり苦しんだりしている田舎町へ。人生の要素を減らすともっと生きることの姿が見えてくる。
奴は今、何を考えているのだろうか。
相変わらず人混みで歌を歌っているのだろうか、幸せなのだろうか、楽しんでいるのだろうか、苦しんでいるのだろうか、後悔しているのだろうか、多分その全てなんだろう。
引っくるめて生きるということなのだろう。
ビート・ジェネレーションの”Beat”は、「くたびれた」とか「うちひしがれた」とか、あまりポジティブな意味ではない。東海道線の座席で背中を丸め眠り続ける、それでも鼓動は続く、going on、続く、続く、叩き続けろ、リズムを刻み続けろ、それもビートだ。
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